今私がベルリンに住んでいる理由の一つに、その歴史に惹かれたことがあります。ベルリンの壁は、日本が戦後の急成長を遂げていた1961年から1989年にかけて、約28年にも渡ってベルリンを分断していました。
知れば知るほど興味深く、そして悲しいベルリンの壁の歴史を紹介します。
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第二次世界大戦後のドイツ
第2次世界大戦後、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国によって分割支配され、首都のベルリンもまた、4分割されます。ベルリンの西側がアメリカ・イギリス・フランスの、東ベルリンはソ連の管理下になりました。
ベルリンの街自体はソ連の管理区域の中にあったため、西ベルリンはソ連管理下の中に飛び地のようにあったアメリカ・イギリス・フランスの管理地ということになります。
アメリカとソ連が対立し、冷戦状態に入ると、1949年社会主義陣営に属するドイツ民主共和国(東ドイツ)と、自由主義陣営に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、この2つの国の成立によってベルリンの街も東側と西側で別の国、という状況になります。
しかし、この2つの国の成立と同時に壁が出来たわけはありません。
1949年から1961年までの11年間は2つの国を隔てる壁はなく、市民たちは自由に行き来することができました。東ベルリンに住み、西ベルリンに働きに行く人やその逆の人、また国境を挟んだ向こう側に家族や友人がいる人も居たようです。もともと1つの街だったのだから、その風景はごく当たり前のことでした。
極秘で進められた壁の建設計画
しかし、社会主義国と自由主義国の発展スピードは明らかに異なり、豊かな生活を求めて西ベルリンに移住する人が年々増えていきます。その中には若者、熟練の技術者、医師など国を支える貴重な人材も多く含まれていました。
この状況を受けて、ソ連は自国民の流出を避けるために西ベルリンを囲む形で壁を建設します。1961年8月13日のことです。
壁の建設計画は極秘に進められたため、西側勢力はもちろん、東ドイツ内でもその計画を知る者はほんの一部でした。壁が築かれる前日の8月12日は、東西ベルリンの子どもたちが一緒に元気に遊び、東ベルリンの人々が西ベルリンの映画館に行く、いつものような土曜日だったと言います。
深夜になって計画が実行に移された時、街に起きた変化に敏感に反応し「最後のチャンス」だとすぐに行動して成功した者、間に合わなかった者、そして翌朝に全てを察して「1日遅かった」と涙する者、その反応は様々でした。
一夜にして築かれた壁は、やがて高く・頑丈になり、武装した兵士が壁を見張り、東ベルリン市民たちは近づくことさえできなくなります。
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壁建設に対するベルリン市民の反応
当時、言論の自由が認められていなかった東ベルリンに対して、西ベルリンでは壁の建設に反対する大規模なデモが行われたことが記録に残っています。
Dies Mauer kann uns nicht trennen.(壁は私達を分断できない)
国は違えど、自分たちは皆ベルリン市民だ、という意思表示です。
壁が出来てからも、あらゆる手段を使って西ベルリンに脱出しようとする人々は多くいました。彼らの勇気ある行動とその結果は、ベルリンの壁記念館(Gedenkstätte Berliner Mauer)や、当時の検問所Check Point Charlieの博物館で見ることができます。
地下トンネルを掘った者、気球を使って空から越えようとした者、川を泳いで、地下鉄の線路を歩いて西ベルリンに渡ろうとした者・・・成功した人、失敗して捕まった人、命を落としてしまった人など、結果は様々です。
壁の中の生活とは
壁の中の生活とはどのようなものだったのでしょうか。私の知り合いの50代の女性は、ベルリンで生まれ、壁の時代を西ベルリンで過ごしたechte Berliner(真のベルリンっ子)です。
「昔、ここは検問所があって通るのにすごく渋滞していたのよ」とか、「壁に囲まれていたけどベルリンは公園が多くて閉塞感はなかった」とか、壁の中の生活を教えてくれました。
また、壁の時代からベルリンに住んでいるあるご夫婦によると、西ベルリンから東ベルリンへは観光として訪れることが出来たようです。入国する時にいくらかを東ドイツの通貨に両替させられるが、東側で売られているものはどれも西側に比べて陳腐で、欲しいものなんて見つからなかったそうです。
ちなみに入国時に両替したお金は出国時にもう一度西側の通貨に両替することは出来なかったようです。
一方、東ベルリンの住民は、西ベルリンの家族のお葬式や誕生日などに一時的に西ベルリンに旅行することは建前上認められていましたが、実際には許可が下りないことも多かったようです。
西側への逃亡に成功した人々のその後
東ベルリンから西ベルリンに無事渡ることが出来た人は、まずベルリン南部にあった難民キャンプに行き、そこで住居や西ベルリン市民としての権利を得ることができました。数十年前にドイツ国民が「難民」としての経験をしていたことを知ると、現在のドイツの難民受け入れについてもまた違った見方が出来るのではないでしょうか。
そして、壁の崩壊
永遠に取り払われないとも思われたベルリンの壁は、1989年11月9日、東ドイツの報道官のある発言がきっかけで自由を求める東ベルリン市民が壁に殺到し、市民の力により壁は崩壊します。1つの街が東西に分断されてから、壁が崩壊し再び1つになるまで10315日、年数にすると28年2ヶ月27日でした。
壁が崩壊してから30年経った今、ベルリンは多くのアーティストが活動するアートの街であり、スタートアップ企業が集まる活気あふれる街です。
一方で、街の雰囲気は壁があった時代の名残を留め、大きく3つのエリアに分かれています。
高級住宅地エリアを含み、美しい街並みが残る「壁の西側」(旧西ベルリン)、殺風景なアパートメントが建ち並ぶ「壁の東側」(旧東ベルリン)、そしてもう一つは東西の境界線上にあり、壁崩壊後に急速に発展した「壁があったエリア」です。
ベルリンの街に残るこれらの違いは、ベルリンの壁の歴史を忘れてはいけない記憶として街全体で保存し、世に伝えるという意味もありながら、第2次世界大戦後、異なった発展をしていった東西ベルリンの違いは、数十年という短期間では解消されない、ということも示していると思います。
ベルリンの歴史が私に教えてくれたこと
壁の歴史は、私の「歴史」の概念を変えました。
歴史=自分がまだ生まれる前のずっと昔のこと、というイメージと異なり、ベルリンの歴史は「歴史」と言うにもあまりにも日が経っていない、つい最近のことです。世界中にある歴史都市の中で、とりわけベルリンに惹かれたのは、映像や写真で多く残されているその出来事が日本にとっての「戦後」に起きていたからだと思います。
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より詳しく知りたい、という方のために
この記事を読んでより詳しく知りたい、と思ってくださった方のためにいくつか参考情報を載せておきます。
ベルリンの壁記念館(Gedenkstätte Berliner Mauer)
入場無料で入れる記念館です。当時の写真や一部残っている壁を見ることが出来るDOKUMENTATIONSZENTRUM(ドキュメンテーションセンター)は必見です。
HP:https://www.berliner-mauer-gedenkstaette.de/en/
当時の検問所Check Point Charlie
よい詳しい展示が見られる有料の博物館です。近くには検問所の跡地があり、有名な写真スポットです。
幽霊駅”Nordbahnhof”(ベルリン北駅)
東西ベルリンの境界線上にあったため、分断されていた時代は使われなかった幽霊駅の1つです。当時の駅の写真や、脱出に成功した人/失敗した人の話の展示がされている他、当時の鉄道路線図などが見られます。
HP:https://www.mauermuseum.de/en/start/
East Side Gallery
壁が崩壊した後に、世界中のアーティスト達が平和や自由の願いを込めて書いた絵が見られるオープンギャラリーです。1kmとけっこう長いので時間がない時は端っこだけ見るだけでいいと思います。
映画:グッバイレーニン!
東西ドイツ統合後の庶民の身に起こった悲喜劇を家族像と共に描いた映画です。テーマは重いですが笑い要素もあって気軽に見られます。
参考文献:
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81%E5%B4%A9%E5%A3%8A#%E5%A3%81%E5%B4%A9%E5%A3%8A20%E5%91%A8%E5%B9%B4
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